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会う [よしなしごと]

「いま会えるアイドル」がキャッチコピーだったアイドルグループが、あっという間になかなか会えない人々になってしまうような昨今ですが、会える人には会ってみるのも悪くないと思った出来事がありました。きっかけは衆議院選挙。失礼ながら私は政治家さんが苦手で、いままではせいぜいマニュフェストをざっと読み比べる程度の「書類審査」のみで投票してきました。


ところが先週、初めて生で候補者のスピーチを聞くことがありました。スピーチの後、忙しそうな候補者さんを追いかけて行って、気になる点について質問してみたところ快く答えて下さいました。とても緊張しましたが、心のどこかにあった嫌な感じがすっきりしました。それは疑問点が晴れたすっきり感とも違います。また、ご本人に直接念押しが出来たという事でもないように思います。もとよりモヤモヤのもとは自分の中にあるものでした。

たぶん嫌な感じの正体は、投票において自分は1票という単位でしかないという気持ちだったのだと思います。それが生身の人に声をかけるというアクションを経て、人間としての全体的な自覚を得たのだと思っています。
政治は多数決と言われます。私は多数決の中の1単位となる事に違和感を感じてきました。今回、声をかけた時の緊張感は自身を数でないものに捉え直すきっかけとなりました。例えて言えば書類審査→投票だった頃から比べると2次元が3次元になった感じです。たとえ見る側によって以前と同じ1という数量でしかないとしても、少なくとも自分にとって政治は数字ではなくなりました。


現代の生活に於いて1人の人間は政治に限らずたくさんのシステムに関わっています。家族の繋がり、仕事の繋がり、作る人として、あるいはそれを享受する人として。時にはその1つ1つの中で自分がとても小さな部品のように思えてしまうことがあります。そしてそうなるとそのシステム対して興味を持ちにくくなってしまうのではないでしょうか。


けれどそれが人間で構成されたシステムだったら、会いに行って、ちょっと話しかけてみたら良いのかもしれません。相手が変わるかどうかは解りませんが、自分の視界がちょっとでも変わるかも知れないと思いました。

「宝箱を開けよう」〜18年目の発表会、皆さんの演奏を聴いて〜 [よしなしごと]

昨日18回目の風韻の会が終わり、今朝はその余韻を味わっています。
発表の後は満足そうな顔も悔しそうな顔もありました。一人一人の笛の音は単旋律ですが、日頃のレッスンを見させてもらっている私にとっては、そのバックにその場に収まり切らない美しいアンビエントが感じられます。

最近の私は笛を吹く事を「音で面白い遊びをすること」と思うようになりました。例えて言うなら、子供がどこかで見つけた不思議な石などを時々手に取って楽しむようなとても個人的な感覚の世界です。人前でそんな演奏をしても、自分が気に入ったものに対して誰もが同じように興味を持つ訳では無いでしょうから、まあ100人に1人くらいの確率でたまにそんな出来事が起きたら良いな、と思って吹いています。

音に対して感じる自分なりの面白さ、美しさ、確信といったものはまさに子供時代に秘密の宝箱に入れた石ころのようだと思いますし、レッスンを通じて他の人もまた、そういう何かを持っているのでは?と思うようになりました。出会ったばかりはそれらしいものが分からなくても、10年、20年一緒に笛を吹いているうちに何となくですが見えて来るような気がしているのです。共感は一瞬で時空を超えるミラクルであると同時に長い長い孤独とのコントラストによってキラキラと輝くのかも知れません。

さて本番演奏ですが、人前に出ると失敗を恐れて音を楽しめなかったり、本来は自然の物理現象であるはずの音を、自身の生産物のような気がして恥ずかしくなったりと、なかなか石を愛でるどころでは無い場合も多いと思います。

それ対して、次のような暢気な提案をしたいと思います。
練習の長さに対して本番はずっと短いですから、もし練習時間自体が楽しいものだったなら(宝箱の中の石でたっぷりと遊ぶことが出来たら)、本番でそれが出来なくてもトータルでお得だったと思ってしまえば良いのではないかという考えです。経験上、仕事で演奏する時は色々制約もありますが、楽しみで吹く時は堪能しなきゃ勿体ない「音楽の恵み」「自然の恩恵」だと私は思います。

そうは言っても、人前である程度の格好がつかないとと思う気持ちは誰もがあって、そういう末節の原因で笛を吹く気持ちが暗くなってしまう事もあるかも知れません。でもそういう時に音楽の恵みや本質的な楽しみを取り戻してくれるものもまた音そのものの美しさ、面白さなのかも知れないと私は考えています。

そのような訳で、今までと同じく今日からもまた、私のお気に入りの石ころをご紹介し続けたいと思います。ごくたまにでも共感して頂けるものがあったら嬉しいです。(書いたのは11月11日です)

孤独な泉・・・そして海 [よしなしごと]

落語「頭山」は主人公は自分の頭の上に池が出来て、最後にはそれに身投げをしてしまうというパラレルなお話でした。ところで自分の奥からやって来る音イメージの源をどんどん辿って行ったらどうなるのでしょう。今日はそんな妄想してみたいと思います。

私は音楽を扱って暮らしています。けれど自分の扱っているものに「音楽」というネーミングはしっくりこないと感じる事があります。扱っている音は例えば「ふんふふーん」とか「すったかどん」、あるいは「しゅばりかーん」であって「音楽」とはちょっと違う感じなのです。

その気持ちは無性にラーメンが食べたい時、誰も「食品が食べたい」と言わないのに似ている気がします。また、正体は完全にラーメンでも「中華そば」という名前では心が納得しきれないのにも似ています。名前だけでなく中身の味わい方も「夜中に無性にラーメンが食べたい時のように丸ごと味わうのであって、ラーメン通の人が麺の喉越しやスープのコクを分析するみたいに「リズム」「メロディー」「ハーモニー」などと分けてしまったら、きっと「しゅばりかーん」などは全く違うものになってしまいます。たとえ「通」であっても夜中に小腹がすいた「ただの人」になってラーメンを食すように。

音楽にはたやすく人とノリを共有出来る一面があると思います。それと同時に自分だけの間(ま)や響きといった世界もあり、その源泉は自分だけの小さな泉のようなものに思えます。私の泉は誰かに共感してもらうにはアクセスが悪く、地味で、ヘンテコで、完全に孤独なのですが、はかないけれど自分にとっては確信に満ちた音が聴こえてきます。もしそこへ入って行ったら「頭山」の主人公のように溺れてしまうのでしょうか。

けれど、もしその泉の底のほうが地下水路になっていて、潜水服を付けて辿って行ったら真水の下に海水の層があって、驚きながらそれを辿って行ったら。。。海に出て!そこで大きなうねりに合流していたら良いなあ。そんなことを思う今日このごろです。妄想だけでこんな長文、ごめんなさい。なにぶん妄想を食べて生きている笛吹きなのでちょっとだけ大目に見て頂けたらうれしいです。
皆さんの泉からはどんな響きが聴こえていますか。

でっきるかな? [お知らせ]

「よしなしごと」をブログにしようと思って色々練習中。出来たのかどうか、はてはてふふ〜ん。
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